令和3年度山陰海岸ジオパークガイド養成講座中級第4回のレポート
令和3年度山陰海岸ジオパークガイド養成講座中級第4回のレポート
令和3年度山陰海岸ジオパークガイド養成講座(中級)第4回が10月23日に開講いたしましたのでレポートを掲載いたします。
浦富まち歩きⅡ(浜浦富)
荒砂神社拝殿・本殿
大神社荒砂大明神として鈴見山にありましたが、蒲生川の洪水で流出し、ここ大神(おおむわ)ケ崎に鎮座したもので、桐山城にこもった山中鹿之助は、尼子再興を祈願、箭100筋寄進(現在2筋が残る)したと伝えらえれています。また、本殿は小倉圓三郎の作で、特に隅垂木の五段の龍の彫刻は見事です。
大神ケ崎の海食崖と波蝕棚
荒砂神社のある島を宮島、その先端を大神ケ崎と呼びました。神社裏側に海蝕崖と小規模な波蝕棚が見られまた弁天さんを祀る向島西側に波蝕棚が見られるスポットです。
五郎兵衛さん(奥野五郎兵衛)の墓
「イボの神さん」として古くから知られ、「五郎兵衛さん」と呼ばれ地域から親しまれている墓碑です。岩井郡下構の村庄屋をまとめる組頭であり、天保2年(1682)秋、岩本の御蔵奉行の百姓に対する非道を藩に訴えましたが藩役人を訴えたことにより、大庄屋中島吉右衛門らともに死罪となりました。いつしか墓が建てられ、神さんになったという経緯があります。盆、春・秋の彼岸にはこども連れの参拝者も多いお墓です。
霊祥寺歴代住職の墓地
奥市にあった霊祥寺歴代住職の墓は、明治の初めにこの場所に移されました。墓石のない1基を含め12基が確認され、黄檗宗、龍峰山興禅寺から代々の住職が来ていたようで、隠居寺だったと思われます。
浜浦富観音堂(本尊 魚籃観音)
創建は不明、本尊の他に薬師如来、脇侍(日光・月光菩薩)、観音像(3)、大師像(2)や涅槃図軸などが祀られていて、このうち如来像と脇侍、涅槃図軸は鵜殿家から観音堂に移されたものです。また、池田加賀守正虎の嫡男掃部・次男左近の位牌など、9つ、12人分の位牌もあります。
池田加賀守嫡男掃部・次男左近の墓碑
池田加賀守政虎が館を建てるのに垣屋光成の墓が邪魔になると墓を暴いた時、これに携わった者や正虎の家族が死に絶えたと「稲葉民談記」は伝えています。政虎の母親、娘も亡くなり、鳥取 覺應寺に葬られ、垣屋の祟りとうわさされました。
澤田廉三・美喜の墓地外交官、初代国連大使澤田廉三とエリザベス・サンダーズ・ホームを設立した美喜の墓地。三男、長男夫婦も埋葬されています。
仙龍寺・清正公さん
鳥取 妙要寺(法華宗)末寺で妙躰寺と云いましたが、鵜殿家の願いで享保11年(1726)に仙龍寺と改称、先祖の位牌を収めました。明治3年 妙要寺に併合、浦富教会として復活、昭和63年泉仙龍寺として復活し正一位清正公を祀る神社です。赤い鳥居、キツネが左右を守る清正公(加藤清正の敬称)
吉祥院(権現さん)
鳥取の大雲院(天台宗)末寺で元は金峰神社境内、竹美山龍王寺です。途中、院号を瑞泉院と云いました。明治の神仏分離で廃寺、岩本の観照院に合併し明治12年、浦富の信徒の懇願により開基、再建されました。
御陣屋跡と石山城址
鵜殿氏の陣屋の跡地で石垣が残っています。正面奥の山裾に井戸が有り、今も湧いています。背後の山は「むこう山」といい、山頂の尾根は桐山城跡に続き「因伯古城跡図志」の石山城はこの山の事です。
澤田三兄弟生家跡
澤田節藏(外交官)、三男廉三(外交官・初代国連大使)、四男退藏(実業家)の三人。母久子は自宅を「日本基督教岩美協会」とし、幼稚園を設け、日曜学校も開いた、とされています。
この外にも、法美・邑美・岩井三郡の郡長、藤正健の墓、元東京府知事松田道之住居跡と松田家墓地、澤田退蔵家の墓、湯本丈貴の墓、白髭神社、浦富5号古墳跡地、往古蒲生川の流路跡など浜浦富の文化財・古跡を巡りました。
残念ながら、この日は鵜殿家墓地、桐山城跡、浦富焼き窯跡、霊祥寺跡は時間がなく回れませんでしたが、別の機会を設けたいと思います。
次回の山陰海岸ジオパークガイド養成講座は11月13日
専門講座5 「二上の城と城下岩常集落の文化財」となります。